GS1250ADV SUGURU’s DIARY

還暦超のアルピニスト・バイク乗りの極めて平凡な日常

花見にと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜のとがにはありける

花見にと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜のとがにはありける  西行
 県内も急に暖かくなって参りました。東京では桜の開花も進み、見頃になっているとか…。スキーの方では稜線に近いところでの山岳スキーにはいい頃を迎えますが、ゲレンデでは終了ないしベタついた雪になってしまう頃です。
 さて、当地では例年ですと桜の開花はまだ先なのですが、ここ数年は4月入学式頃に満開を迎えています。今年はどうだろう、と思っていたのですが、今年も早い時期に桜の開花があるかもしれません。
 先日(2/15西行忌)西行桜のことなどを書きましたが、西行の作歌には「さくら」を詠んだものが多いんですね。研究者によると約2000首中に約230首あるそうです。よく知られたことであったのでしょう。世阿弥作になる能の演目にも「西行桜」というのがあります。展開としては次の通りです。
 京都の西行の庵。美しい花を咲かせる桜の古木がありました。春、桜を愛でようと多くの人々が訪れます。ある年、西行は思うところがあり花見を禁止しました。一人桜を愛でていましたが、例年に変わらず多くの人々が訪れます。追い返すわけにもいかずに招き入れました。そして、冒頭の歌を詠みます。
 花見にと群れつつ人の来るのみぞあたら桜のとがにはありける 
 (花を愛でようと多くの人をひきつけるのが 桜の罪なところであることよ)
 人々も帰った後、夜通し桜を愛でようと、木陰に体を横たえました。そんな夢うつつのところ、老桜の精が現れ、西行に問いかけたのです。
 「これは夢中の翁なるが、いまの詠歌の心をなほも、たづねん為に来りたり。」
 「いや上人の御歌に、何か不審の有るべきなれども。群れつゝ人の来るのみぞ、あたら桜のとがにはありける。『さて桜のとがは何やらん』」(さきほどのあなた様の歌の思いを尋ねるために現れました。「さくらのとが」とはどういうことですかな?)
 「いやこれは唯浮世を厭ふ山住なるに、貴賎群集の厭はしき、心を少し詠ずるなり。」(ここは世俗を離れた住まいでありまして、大勢の人々が集まってくることの厭わしさを詠んだものです。)
 「おそれながら此御意こそ、少し不審に候へとよ。浮世と見るも山と見るも、唯其人の心にあり。非情無心の草木の、花に浮世のとがはあらじ。」(その思いこそおかしくはないですか。世俗を見るのも山を見るのも、ただ人の心にあります。桜はただ咲くだけのもので、咎などはありはしません。)
 そんなやりとりの後、老桜の精は西行に桜の名所を教え、舞を舞います。夢が覚めると、老桜の精もかき消すように姿をなくし、老木の桜がひっそり息づいているのみ…。
 ということなのです。なんとも幽玄かつ雅な中で、人の「心」の持ちように思いを致す演目となっています。
 「さくらのとがとは何やらん」「非情無心の草木の 花に浮世のとがはあらじ」
 この展開、この言葉が心に響くんですよね。
 どうしてか…。妙なアタマによる、妙な関連づけに過ぎないんですけれどね。
 例えばです、多忙な折にもかかわらず、どうしてもGSに乗って旅をしたいとの思いが沸き起こることがあります。そんな時、『旅への心を掻き立てるのがGSの罪なところだ』なんて思っちゃうわけなんです…。歌にはできませんけれどね。
 なんとまあ失礼な責任転嫁! BIKEの精が現れて「GSのとがとは何やらん」とたしなめられてしまうかもしれません。
 『唯其人の心にあり』 様々なことで、このことが言えるんでしょうね。有用も無用も、役立てるも害にするのも、人生の潤いとするも、のめり込みすぎて生活を破綻せるも…。ただその人の心にあることなのでしょう。