GS1250ADV SUGURU’s DIARY

還暦超のアルピニスト・バイク乗りの極めて平凡な日常

赤彦と茂吉

 島木赤彦と斎藤茂吉の二人の歌人。赤彦が6歳年上ですが、ともに伊藤左千夫に師事する弟子であり友人でもありました。また、もちろんライバルとしてお互いにリスペクトしていたのだと思います。この二人で「アララギ」をささえた存在であったとも言えます。
 記念館の展示にもありましたが、茂吉は病気のために何回か転地療養をしています。赤彦は見舞いのために度々療養地に出かけています。茂吉の歌集「つゆじも」の中に、自身が療養する長崎へ、赤彦が見舞いに来た時に詠んだ作品がありました。
◇「つゆじも」所載    
・七月二十四日  (大正九年
  島木赤彦はるばる来りて予の病を問ふ   
   長崎の暑き日に君は来りたり涙しながるわがまなこより
   よしゑやしつひの命と過ぎむとも友のこころを空しからしむな
・温泉嶽療養
  大正九年七月二十六日、島木赤彦、土橋青村二君と共に温泉嶽にのぼり、よろづ屋にやどる。予の病を治せむがためなり。二十七日赤彦かへる。二十八日青村かへる。
  この道は山峡(やまがい)ふかく入りゆけど吾はここにて歩みとどめつ
  この道に立ちてぞおもふ赤彦ははや山越(やまごし)になりにつらむか
  赤彦はいづく行くらむただひとりこの山道をおりて行きしが
 遠方から見舞いに来てくれたことに対する感謝の思い、帰りゆく友の帰途を案ずる思いが率直に詠われていて心を打たれます。
 後日、赤彦が病に伏すようになってからは、茂吉が何度も諏訪にある赤彦の居宅(柿蔭山房)に見舞いに訪ねています。アララギ派の同門の歌人や、岩波茂雄(岩波図書創始者・諏訪出身です)などとともに何度も見舞っています。茂吉は、病床の赤彦の容態の変化や、対話と心の交流を記録し、赤彦が逝去するまでの数か月間の様子を「島木赤彦臨終記」として著しています。この作品には、茂吉が投宿した「布半旅館」や諏訪湖周辺の事が描かれていて、地元民にとっては興味深い記述が散見される作品です。
 余談ですが「布半旅館」(現「ぬのはん」)は赤彦が贔屓にしていたところでもあるそうです。歌会や学習会にも利用したほか、教員人事の構想もこの宿で練っていたとか…。現在でもこの館内の至るところに赤彦ゆかりのものや遺墨が展示されています。箸袋も赤彦の歌が刷られています。また「赤彦の間」という特別客室が設えられています。昨年三月末の私の定年退職の折、家人が退職祝いの宴ということでこの「赤彦の間」をとってくれて、家族で一晩過ごすことができました。温泉もお料理もとてもいい旅館ですので、おススメです。
 赤彦と茂吉は、ともに明治時代に生まれ、ともに大正時代を生きました。師匠の伊藤左千夫とは一世代近い差があります。師弟間でも同門間でも、作風や歌論、作品解釈について、それぞれに主義主張が生まれ、論争等が伴うことは常です。この辺りのことは省きますが、一番の論点は「写生論」の違いです。佐千夫は「写生の語は絵画用語であり『写実』と言うべき」ということに対して、赤彦と茂吉は「写生」の語を用いています。
  ※ 島木赤彦「写生道」  斎藤茂吉「短歌に於ける写生の説」
 左千夫が亡くなった後、「アララギ」の編集発行人は茂吉が務めています。その後、長野県の教師(この時は県視学…今で言えば県教育幹?)を辞した赤彦が上京して編集発行人を引き受けます。赤彦死後は、ふたたび斎藤茂吉が編集発行人となります。(そののちは土屋文明に引き継がれます) 
 また歌集も競うかのように発表・出版されました。
 1913(大正二)
  茂吉 「赤光」  赤彦・中村憲吉共著 「馬鈴薯の花」
 1921(大正九)
  茂吉 「あらたま」  ※この後、茂吉はヨーロッパへ留学 ~1924(本業・医学留学)
 1920~1926(大正九~大正十五)
  赤彦 「氷魚」「太虚集」「柹蔭集」
         ※1926年 赤彦死去 茂吉「島木赤彦臨終記」
 それぞれの個性を発揮しながらも、刺激しあい協力してそれぞれの世界を築いてきたのは、作歌の基本に「万葉に学ぶ」「写生」という共通項があったからでしょう。よい競合関係は活力を生みます。「アララギ」がこの時代に大きな発展を見たのはこのあたりに理由があったのです。
 誰でしたか「斎藤茂吉を読むのだったら島木赤彦も読んだらいい」と教えていただいたことがあったのですが、「赤彦を知るのであれば斎藤茂吉を知るといい」ということも言えるのかなあと思います。
 そんなことを「言い訳」にして、また出かけよう!
 次回は「磐梯吾妻スカイライン」と「蔵王エコーライン」とセットだな!