会いたい人には 会いに行こう 会いたい景色にも 会いに行こう
会いたい人には 会いに行こう。
会いたい景色にも 会いに行こう。
コロナ禍の中、不要不急の外出自粛が言われている中、何を言い出すか!と叱られるでしょうか。
そんな昨今ですが、そうでなくとも忙しい日常にあるときにも、これが難しいんですよね。(…こんなこと言いながら、結構ウロウロしていると思うぞ!)
しかし、時には、それは無理かなあという思いを乗り越えて、手を尽くし段取りをして、機会を生み出して会いに行くことも、心の健康のためには大事なことだと思っています。考えてみれば、会いたい人がいるだけで、会いたい景色があるだけで、それは幸せなことだなあと思います。
さて、「会いたい人」「会いたい景色」ということですが、ここでいう「会いたい人」というのは、友人とか先輩とか恩師とか…
そうした、ご存命の方ばかりではありません。
また、他人様ともかぎりません。
はあ? 何のこっちゃ? また、お馬鹿なこと口走っていると思われるでしょうか。
「会いたい人」 それに当たるのは、古の憧れの人物であったり、普段とはちょっと違う「会いたい自分」であったりする、ということです。
過去の人物のゆかりの場所や史跡を訪ね、その空気感に触れながら、その人物の声を聴くような思いになったり、さらには会話しているような気持になったりすることです。能に例えれば、自分が「ワキ」となり、所縁の人物の霊が「シテ」として立ち上がってくるような… まあ、想像をたくましくするというか妄想に近いのかもしれませんが、そんな境地に立てればいいかなあ…ということなんですね。
「会いたい景色」も同様の関連性を持っています。「そこ」に行かないと出てこない「思い」を感じに行くということです。
そして、目で見える景色ばかりでなく、ある「状況への遭遇」を求めていくことも同じです。
その状況であるからこそ出てくる、「普段とは違う自分」というのもあるんですよね。いつもの自分とはちょっと違った「自分」に会えたりするということです。
例えばですが、トレランのスタート位置に並べば、普段の怠惰で気の抜けた自分とはまったく違う自分が出てくるではありませんか。アルプスの稜線も同じことが言えますし、GSに跨っているときにもそれが言えるわけです。
「その場」「その時」での自分は、仕事場や自宅の「居間」「書斎」の自分とは違います。そんなその場でしか感じることのできない、味わうことのできない、場所や景色を持っていることは幸せなことかもしれませんね。
まあ、どんな景色か、どんな人か、どんな自分か…。
それはそれで、いろいろ問題がある、あるいは問題を引き起こす(?)こともあるのかもしれませんが…。