GS1250ADV SUGURU’s DIARY

還暦超のアルピニスト・バイク乗りの極めて平凡な日常

誰も ひとりじゃないんだよ・・ ②

誰も ひとりじゃないんだよ・・ ②
 今回、直江津つながりで、この「山椒大夫」の関連で思ってきたことを記したいと思います。
 この森鴎外の作品は、教員現役時の国語授業の教材としてよく扱いました。「舞姫」「高瀬舟」などと並んで教科書に登場する機会の多い作品ですから、国語授業で親しんだ方も多いのではないでしようか。
 同じ作品を題材として授業を構想するとしても、毎度同じ展開の授業をするわけではありません。生徒たちの興味関心や実態をとらえて、どんな切り口から作品に惹きこんでいくかを熟考します。児童生徒の姿をしっかりとらえたうえで教材研究をし、授業を構想することに努めないと、睡眠者多数の両者にとって辛い時間になってしまいます。
 そんな失敗も多々ありましたが、生徒たちと一緒に読み味わいたい名場面として、下記の場面を挙げたいなと思っています。
 厨子王は黙って聞いていたが、涙が頬を伝って流れて来た。「そして、姉さん、あなたはどうしようというのです」
 「わたしのことは構わないで、お前一人ですることを、わたしと一しょにするつもりでしておくれ。」

 「山椒大夫」の作品中、厨子王を追手から逃がすため、安寿が自ら犠牲になる場面です。

 この後、厨子王は無事に都まで逃げおおせて、のちに世に出て身を立て、やがて生き別れた母を見つけ出す…という展開になります。厨子王の成長と行動が物語の主軸となっていきます。しかし、私には「安寿の物語」としての印象が強い作品なのです。

 初めて作品に出会った時から、しなやかな強さをみせる安寿に心ひかれていました。姉は自ら入水することで弟に生きる道を与えます。その鮮烈な展開。鴎外は原典から安寿の芯の通った強さを見出し、それをこそ自らの作品中で表現したかったのではないか…と、私は解釈しています。それはさておき。
 「私と一緒にするつもりで」…ということについて思うことです。
 何をするにも、一緒に力を合わせて立ち向かっていきたい。そんな人がいるという事はとても幸せなことです。けれど、様々な事情や運命、時の流れの中で、どんなに深い絆で結ばれている人とも、いつか別れなければならない時は、必ずやってきます。
 自分は様々な時、これを感じること、感じようとすることがあります。仕事の場、旅の日、山にある時、走る最中、バイクで走る時…等々。そんな時、亡き両親、恩師、山に逝った友人、そんな人々のことを思う…ということです。力を与えられるという感覚が生じることがあります。しかし、それよりは、情けないことや恥ずべきことはしないとの思いが生じる、という感覚が強いかもしれません。
 誰も、決してひとりではない。見つめられ、見守られている。そんな思いは、様々なことを為そうとしている場で、大事にしていきたいことのひとつだと思っています。児童生徒たちにも大切にしてほしい…。
 「山椒大夫」の作品の学習から、そんなことにも考えが及ぶ、思いを馳せるような国語授業がしたかったなあ…と、できなかった過去を振り返ることも度々です。

安寿と厨子王供養塔

 

直江津港近くの琴平神社となりにひっそりと立ち並んでいます。

 

地元の皆さんに大切にされていることを感じます。