GS1250ADV SUGURU’s DIARY

還暦超のアルピニスト・バイク乗りの極めて平凡な日常

能楽鑑賞 国立能楽堂にて

 所用で上京した機会に久しぶりに能楽鑑賞に国立能楽堂を訪れました。
 千駄ヶ谷にある国立能楽堂。今日は正面の席を確保していました。長野県でも野外の薪能などが行われますが、やはりここは別格な空間で、凛とした空気がながれているのを感じます。(長野県でも野外の薪能などが行われます。それらも実に味わい深い素晴らしい空間です。比較するものではありません)
 今年は茶人千利休生誕500年ということで、国立能楽堂ではこの四月を「月間特集千利休生誕500年」と題し茶道や茶道具にちなんだ演目を上演しています。それでは今日の「俊寛」はどんなつながりかな?と思いましたが、なんでも利休がこの故事にちなんで「俊寛」と名付けた茶碗があるそうです。ワタクシのような俗人は「鑑定団に出たらどんな値段がつくんだろう?」などと俗っぽいことを考えてしまうんですねえ。
 今日鑑賞した「俊寛」は「鬼界島」(きかいがしま)とする流派もあります。世阿弥作といわれますが詳らかではありません。平家物語を素材にした演目です。
 中世には日本の最果てとされていた「鬼界島」。そこに一人取り残されることになる僧侶俊寛の絶望を描く内容です。見どころは刻々と変化する俊寛の心情表現の凄みでしょう。 
 簡単にあらすじを記します。
 平家討伐の謀が漏れて遠島になった俊寛ほか二名。ある時都から赦免使か赦免状を持って来ますが、赦免状には俊寛の名がありません。赦免使到着の時の喜びと期待。赦免状に名前が無い時の不安、絶望。島を離れていく二人を見送るときの怒り、嘆きなど…。極限状態に追い込まれていく人間の心情そのものが表現される演目です。
 能では生きている成人男性は面は付けないのですが、俊寛の場合は「俊寛」という専用の面を付けます。過酷な生活、極限の絶望を経験する役柄であることによるものと言われているようです。
 今日の舞台も大変に素晴らしいもので、改めて能の表現の凄みを感じる一時でした。
 能の鑑賞は、現役時代、授業で扱う教材解釈を豊かなものにしたいとの思いから始まりました。古典文学にとどまらず近代、現代文学にも極めて深い関係があります。現役を退いた身ですが時折鑑賞したくなります。
 極めて限られた空間で、遙かな時間空間を表現する能は、余分な要素をそぎ落とし、簡潔で象徴的な表現に徹します。あらゆる表現に存在する独特な洗練。集中と抑制によって生み出されるものに他なりません。
 私も登山やスキー、バイクの動作や操作において、余計な加飾や無駄な動きをそぎ落とし。集中と抑制による洗練されたものを追究して行きたいものだと強く思うんですよね…余談でした。
 派手に流れることは決してなく、極めて抑制された動きから表現される心情の機微。そして深いうねりを連想させる調えられた謡。それらが一体となって人物の心情を淡々と、それでいてくっきりと描き出していく世界。舞台を鑑賞するたびに、能の表現の凄みを感じさせられます。